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「ふ―――っ‥」

   緋百合の吐息が湯気と混ざって消えてゆく‥。
  ちゃぷん‥と水面で手の平で返す。

     「あんまり長いと、またもみじ怒るかな‥」

  最近の緋百合は一時間は平気でお風呂にいる。
  今は別々に暮らす紅葉はそれを知らない。

    「長湯になったの、お風呂で泣くようになってからだっけ…」

     ほんの数年前、そんなこと考えもしなかったろう‥
     流れてゆく負の滴が、湯に溶けるわずかな救いなど‥
  ふと 濃い絵の具の殴り書きの映(え)が頭をよぎる…
  大きく見開いた目に感情は無く何かを見つめた顔の絵…
  それは灰色と藍色絵の具で描かれたギザギザな自分の姿…

     「―――!!」

     緋百合は頭を抱え込み涙を浮かべる自分に気付いた。

     「わっ、忘れなきゃ! あの絵を塗りつぶす為に…」

  涙を拭いつつ緋百合は強く誓った‥。

     『‥わすれちゃ‥だめ‥よぉ‥

     「えっ?」

     かすかに何かが聞こえた‥
  濁った雑音のような音が‥

     『忘れられるのはいやだよぉ‥

     空耳と疑う囁きだが、二度目のそれに緋百合は警戒を示す。
  “声”のようだが、男でも女でもない不思議な音‥
  何かをまたいで、その向こうに発するモノがいる‥

  「もみじじゃないよね!だれ!?外にいるの!」

     壁の向こうに対し強く吠える緋百合。
  風呂場には小さな小窓が高くに一つ、
  勿論、鍵がかかり中への侵入は不可能。

  『なんで探すの‥?ここにいるんだよ‥
   どうして見つけてくれないのぉ‥


   「う‥!?」

  長く続いた音を辿り、緋百合はそれを見つけた‥
  湯の中‥
  そう―自分の浸かる湯釜の中に、澱(よど)む紺色の水を‥
  南瓜ほどのその塊で、ふたつの目玉らしきもの物が
  虚ろげに緋百合を見つめていた…

  「ひいっ!!」

      とっさに不気味なそれより身を離そうと立ち上がる緋百合。

    しゅる‥
     「んっ‥?!」

     その口を何かが穿(うが)ち、中へと潜り込む。

   「んーっ‥!」

  のどもとまで突き刺さるそれは、ゆらゆら揺れる水の蛇―
  声が出せず、うめきを漏らしそれを見る緋百合。
  歯に伝わる感触は柔らかなゼリーのよう‥

  ざざざ…‥

     さざ波立つ音が聞こえ、緋百合に幾つかの影が掛かる。

 
  「んんっ‥!!」

  それはそびえるような紺色の水塊(すいかい)―
  そしてそのまわりを漂う幾本かの水の蛇―
  いつしか湯船に浸(ひた)す体すべてが、
  ゴムに締め付けられる感じで動きを封じられていた。

     「んーっ!んーっ!」

     必死にそれらを振りほどこうともがく緋百合だが、
  トリモチのように多少伸びては引き戻される。
  そんな緋百合の頭上より、目玉をのせた大きな水の瘤(こぶ)が
  音を漏らす‥
     『淋しいんだよ‥誰も忘れるから、淋しいんだよぉ‥』

  ただ一方的に悲痛に訴える水塊―
  そして緋百合を抱えるその水肌が、一斉に身を擦り付けだした―

  「んんんーっ!!」

  ぞわっ−っと緋百合の全身を鳥肌が包(くる)む。
  それは、滑(ぬめ)りとぶよぶよな身の織り成す
  おぞましいコントラスト―

  緋百合はがくがくと身を震わせ、頭は空白となる‥

     『若い魂(たま)は温かいよぉ‥少し元気になるよぉ‥』

  まるで緋百合から抜け出す精気を感じるかのように、
  うれしいそうな音を立てる水塊‥
  尚いっそう、その身を擦り合わせ、
  緋百合の耳にぬちゃぬちゃと気味の悪い音を送った…
















    
  「んっ…んっ…ん‥っ‥」

       オレンジの薄明かり中、緋百合のうめきがこぼれていた‥
  ぴくん ぴくんと細い線の裸体を小さく震るわせる‥
  つられ、大きくはないが美しいお椀の型をしたお乳も上下に揺れる‥
  湯に濡れるそれは たぷ‥たぷ‥と肌を打ち、
  中の乳が踊るような音を奏でた‥
    意識を戻した緋百合の頭には、この不快さを当てはめようと
    記憶の絵がばら撒(ま)かれていた‥

     (あうぅぅ‥ひどぃ‥こんな気持ち悪さなんて‥)

     断片的な嗚咽(おえつ)はただ心に響く‥
  水塊は一心にその不快行為を続け、
  緋百合の精神を掻(か)き回した。

     (あぁ‥っ‥形と意思があるなら‥‥)

     歪む思考の中で緋百合は答えをだす―

     『ああっ‥!!』

    水塊が悲痛な音をあげ、緋百合の口の水蛇が大きくうねる。
  拍子にずるり、と口から抜け落ち、
  緋百合はけほけほと咳(せき)を吐いた。

     「噛(か)めば痛がるとは予測したけど…」

     まるでオカマのような甘い濁声(だみごえ)は、
  緋百合に違う悪寒を与えた。
  ともあれ、ゆるんだ水の呪縛から手を抜きとり、
  残りの体を引き抜く為に釜の縁に手をついた。

     「あつぅ!」

     一体の鉄塊である釜の縁は当然の如く焼けており、
  先刻の紅葉のように、緋百合は手をばたつかせた。

     「ふぐぅ…っ!」

    その緋百合の口に再び水の蛇が突き込まれた―

     「んん――!!!」

     ぱ‥ ん
  蛇の先端がはじけ、緋百合は目を見開く。
  ぼたぼたと水の破片が落ち、真っ白な湯気が残る‥
  ゆっくりと緋百合の体を再び絡め捕ってゆく水塊。

     『そぅ‥此処(ここ)は危ないとこだった‥』

     水塊の音から怯えた感が消え、
  落ち着いたねっとりとしたものに変わる‥
  お湯の塊でもある水塊は、底の熱い湯を汲(く)み上げ、
  蛇に型めて緋百合の口にぶちまけたのだ‥

     「ひぃーっ、ひぃーっ‥」

     腫(は)れた舌を出し、涙目で乾いた音を吹く緋百合‥
  水塊は水道の蛇口を器用にまわすと、
  そこから垂れ出る水を吸い、再び蛇型を作りだす。
  それを息を吹く緋百合の口へと挿し込んだ‥

     「んっ‥‥‥」

        ぽつっと声が漏れ、緋百合の眉間のしわが消える‥

  『痛みで思い出したよ おまえは“ヒト”だ…』

     落ち着いた音で水塊が続ける。

     『そしてわたしは此処(ここ)にある汚れを喰らうもの‥』

     緋百合の頭上の水塊の瘤に横に亀裂が走り、
  ばくっ、と下部分が垂れ下がる。

  『んーっ‥!』

     口の火傷の痛みで声は弱弱しいが、
  突然目の前をふさいだ水の闇に緋百合は怯えた。
  が、それが持ち上がり、再び瘤へと合さる。

     『‥何故、汚れをくらうのだ‥?』

     唐突に水塊は自問し始めた‥

     『そもそも汚れとは何なのだ‥?』

   ぎょろりと目玉を回す…。

     『思いも出せぬ物の為に、此処に縛られているのか‥?』

     いくらか焦りのある音‥
  消えかけた存在の残り火を抱え込むように、
  水塊は存在意義を求めた‥

     ぎょろっ‥

  動きを止める目玉‥
  その澱んだ水晶に緋百合の肌を映す。
  いや、もっと細かな、そこに浮き出た垢(あか)を‥

     『これに見覚えがある‥』

     水の蛇を這わし、先端を花の様に開いて肌に食いつかせる。

     「んん‥」

     緋百合に伝わったのはくすぐったさ‥

     きゅ‥‥

     張り付いた水蛇は肌表面を吸いはじめる。
  細かな垢の粒が蛇の胴を流れた‥

     『これが汚れ‥か‥?』

    水塊は何かを考えながらも何本かの水の蛇を更におどらせ、
  緋百合のあちこちに張り付けた。

     「んっ‥んっ‥」

  感覚は毛穴を吸われる微妙な心地良さとこそば痒さ‥
  痛みはまるで無く、緋百合は初めて知る快楽の中‥

  『違う気もする‥そうである気もする‥』

  水塊の自問はつづく‥
  ばくんっ‥と再び瘤が裂け、
  大きながま口が緋百合の片腕に喰らいつく。
  そのままもごもごと口のように動かして、
  緋百合の垢をこそぎだす。
  いつしか口の水蛇は抜かれており、
  空いた口を緋百合はぐっとかみ締めていた。

  (‥私、おかしい‥なんで化け物にこんなことされて
  きっ、気持ちがいいの…?)

  先の肌を擦りあわされる不快感と違い、
  今の水塊には嫌悪感が鈍る…
  まるで快楽に飲み込まれていくようで、
  緋百合は必死に自我を守る為食い縛っていた…
  
















     
  
  
  
  しばし続く、怪物による垢すりと、
  それを現実と虚無のはざまで身に受けざる女の姿…
  唇を噛み締めた緋百合の顔も、
  雪解けるようにゆるんできていた…

     「あ‥‥どうして‥‥どうして‥」

     悦(よろこ)びをたたえた瞳を宙に泳がせる緋百合。
  必死に抱えた理性の欠片が風呂場の壁をそれに映す‥

     「でも‥ 男よりはずっといいかも…下心が無いみたいだし…」

     その身を水塊に委(ゆだ)ね、
  体各所から伝わる快感を素直に受け入れた。
  それには、お乳やお尻、そして秘口までもを
  吸われた感触も含まれていた…
  愛撫―とはやさしき触れ合い‥
  痛みを与えず、しきりに緋百合の肌垢をこそぐ水塊のそれは、
  純粋な愛撫ともとれた‥

    「こんな風にやさしく肌に触れてもらうことさえ、
夢だったなんて…」

  奇怪な行為が、逆に自分の知る現実を
  それ以下の醜さだったと教えた…

  「あんなのSEXじゃない…まして愛なんかなかった…」

     水塊によりほぐされたのは体だけでなく、
  心もゆっくりとその膿(うみ)を吐き出していく…

     「やり直したいよ‥私の人生‥」

     その為の旅‥今本当にそう願う気持ちにあふれていた…

     ばしゃ―

    「あっ‥!?」

    体の蛇たちがしぼみ、大きな口も再び閉じられた‥

     『喰った‥だが それだけだ‥』

     水塊はわびしくつぶやいた‥

     「あなた‥言葉はわかるよね、誰?!」

    自由になった体を確かめつつ、緋百合が問い掛けた。

     『‥さあ‥おまえはヒトで、わたしは‥なんだ‥』

     気のせいか、水塊のすがたがかすんで見える‥

     「そう‥」

    共鳴した緋百合も哀しい声を返す‥

  (妖怪‥かな‥。子どものとき読んだ本に
  “垢舐め”なんて名前があったような‥)

     自分がわからない
  孤独
  ヒトのことを知る者‥ 
  それは人が勝手に産み落とし、
  時代に合わない非現実と置き去りにしたもの‥
  こんな風呂場に縛られ、
  与えられた使命のみに生きる怪物が哀れだった‥

     「ねえっ、何もないならいっそ自由になってみたら!」

     気合の言葉を水塊に投げた。

     「好きにするの、新しいものを見つける為に―!」

     それは緋百合自身に向けられた言葉でもあった。

    『縛られない‥?』

  「そう!」

     『自由になれる‥?』

    「ええっ!」

     虚ろな水塊の言葉に強く応える緋百合。
  そこに過ちがあることに気付かず‥

     『何かが‥崩れていく‥』

   「えっ‥」

    どくん、と水塊が体を反らす‥
ぱあ‥っと黒い霧が辺りにたちこめ、
  緋百合の肌がぞわり、と鳥肌を浮かべる‥

    「えっ?えっ?」

     何かが起きる予兆に怯える緋百合。

     人間の負により産みだされた化け物‥
    傷ついた人を優しく包みこむ時、
  その布を突き破る棘があることを緋百合は知らなかった…
  負の塊は、優しさに触れてその真の憎しみを知る…
  自由を許したヒトはその負の初めの生贄…
  優しさとは痛みを受け止めることだから…


     「ああ……」


     その恐怖の光景を最後に緋百合の時の糸が切れた。


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